研究倫理について思うこと

今日は、今更のようですがSTAP細胞絡みで最近やたらと話題になる研究不正について思うこと。

STAP細胞そのものや、小保方さんをはじめとする理研の関係者の将来がどうあって欲しいとか、そういうのを話題にするつもりはありません。一連の出来事の中で、科学について言われていることについて気になったことを。あくまで私見です。

1.「第三者による追試がないと認められない」
特に私の周辺分野の場合、大抵の研究は、関係者(例えばその研究を引き継いだ人とか)によって再現されていれば良い方で、第三者によって追試された実験はそれほどないはず。専用の実験装置を組み上げるところから始まるから、そもそも同じことができる実験装置が他にないことの方が多い。バイオの分野だと、設備自体は似通っていて、第三者による追試が頻繁に行われるのかもしれないが。それにしても、論文として成立させるには新規性が重要とされているから、「○○の論文に書いてあるとおりにやったら、その通りの結果が出ました」なんていう論文が出てくることは滅多にない。
この文言が独り歩きして、「第三者に追試されていない実験に意味はない」とか、逆に「第三者による追試が成功したから、絶対に正しい」とか、そういうのはおかしいと思う。そもそも科学は、絶対に正しいことが証明されるからではなく、反証の余地が常に残っているから、高い信ぴょう性を確保しているのだと思う。

2.「科学の世界では・・・が常識である。」等々
全ての研究者が守らなければいけないルールが代表者を集めて議決されたという話を聞いたことがないし、おそらく無理だろう。科学技術の研究者というのは、 納得のいかないルールに従わされることを最も嫌う人々だと思うし。
「無茶苦茶なデータ処理をする人は信用できないよ、だって根拠が希薄だもん。」基本的にはそういうことだと思うのだが。

3.「Natureに載っている」
NatureやScienceは皆が掲載を羨む超一流誌であることは間違いない。でも、当然審査も厳しくて、掲載されるためには、インパクトの強さと、裏付けとなる完璧に近いデータが求められる。そんなデータはそうそう出るはずがない。「何としてもNatureに」と思えば、データ改ざんの誘惑も起こるだろう。審査が厳しすぎると、逆に不正が起きやすいという、皮肉な結果を生むのだろう。
過去の常識を覆すような成果だと、査読者もおいそれと認められないし、完璧なデータを出すのも難しいはずだから、NatureやScienceに受理されづらい場合もある。実際、ノーベル賞級の成果がもっと格下の雑誌に掲載された例は多くある。
しかし最近は「どの雑誌に何本載ったか」が個人の評価に使われることが多いから厄介だ。そういう無機質な評価は客観的ではあるのだろうけど、自らには研究を評価する能力がないことを認めてしまっているようにも思える。問題の根っこはここら辺にある気がする。

4.「日本の科学研究の信用を揺るがす」等々
言い過ぎでは。

気に入っていただけたら1クリックを
にほんブログ村 科学ブログへ
[商品価格に関しましては、リンクが作成された時点と現時点で情報が変更されている場合がございます。]

重力波・ブラックホール [ 日経サイエンス編集部 ]
価格:2160円(税込、送料無料) (2016/12/17時点)



スポンサーサイト

テーマ : 自然科学
ジャンル : 学問・文化・芸術

プロフィール

バラッくま

Author:バラッくま
色々あったのち東京深川在住の科学技術系の研究者。
クマに似ている。最近はカピバラにも似ている。
専門: 量子エレクトロニクスなど。
休みのときは、(有休を取ってまでして)落語、スキューバダイビング、スポーツ観戦(相撲など。両国が近いのでうれしい。)、音楽鑑賞などを少しずつ。

FC2カウンター
最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
気に入っていただけたら1クリックを
人気ブログランキングへ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード